「“善”に執着すると苦しみになる?仏教が教える“慚愧”の本当の意味」
私たちは誰しも「善いことをしたい」「良い人間でありたい」と願っています。しかし、その“善”への思いが、かえって心の苦しみを生んでいることに気づいているでしょうか?
今回は、スマナサーラ長老の法話から「慚愧(ざんぎ)」という感情を切り口に、善と悪、比較と執着、そして真の幸福と解脱について深く掘り下げてみたいと思います。
■ 瞑想は「考古学」ではない
瞑想中に怒りや欲、あるいは恥ずかしさの感情が湧いてくると、私たちはつい「なぜこんな感情が出てきたのか?」と原因を探ろうとします。
しかし、長老はこれを「考古学的な態度」とたとえます。つまり、過去の断片的な情報をつなぎ合わせてストーリーを作ろうとする行為です。これは歴史の研究では役に立ちますが、瞑想の場ではかえって妄想を助長してしまいます。
瞑想とは、今この瞬間に現れている感情や心の動きを、そのまま観察すること。怒りが出たら「怒りがある」と観る。ただそれだけです。そして、その結果も自然と見えてくる。理屈ではなく、体験として理解していくことが大切なのです。
■ 善と悪はセットで存在する
「慚愧」の感情、つまり「恥ずかしい」「申し訳ない」という気持ちは、どこから生まれるのでしょうか?
この感情は、善と悪という対立する心の働きの中から生まれます。たとえば、誰かに意地悪な言葉をぶつけてしまったとき、後になって「しまった、あんなことを言うべきじゃなかった」と感じる。そのときに生まれるのが「慚(ざん)」の感情です。
つまり、悪がなければ善もない。善があるからこそ、悪が“見える”のです。仏教ではこのような相対性の中で心が揺れ動いていると教えます。
■ 善に執着すると、それは“苦”になる
「善」は素晴らしいものですが、そこに執着してしまうと話が変わってきます。
善い行いをすれば必ず報われるはずだ。誰かに認められるべきだ。そうした思いは「期待」になり、うまくいかないときには「失望」「怒り」へと変化します。
つまり、「善」にも執着が生まれるのです。そして、執着がある限り、心は自由ではありません。
■ 「少しの悪」があるから「幸福」を感じられる?
興味深いのは、仏教では「善と悪を五分五分に保つべきだ」とは教えていないことです。むしろ「善を増やす」ことが推奨されます。
ただし、その前提には「相対性」の理解があります。私たちは、少しの不幸や悪を体験することで、善や幸福を実感できるのです。すべてが思い通りにいく人生は、逆に「味気ない」と感じるようになるでしょう。
■ 仏教が勧める「完全善」の世界
では、仏教が説く「善だけを行う」という生き方は、ただの理想論なのでしょうか?
実は、そこには深い意味があります。善だけを続けると、やがて比較する対象がなくなります。「私は幸せだ」という感覚すら、意味を持たなくなっていく。なぜなら、それが当たり前になってしまうからです。
そのとき、私たちは「善の味わい」にさえ執着しなくなるのです。そこから生まれるのが「諦め=無執着」。この無執着こそが、仏教が最終的に目指す「智慧」と「解脱」へとつながっていくのです。
■ 慚愧の本当の価値とは
「恥ずかしい」「申し訳ない」と感じる感情は、不快に思えるかもしれません。しかし、仏教ではこの感情を非常に大切にします。
なぜなら、これは善へと向かう心の証拠だからです。悪を行った自分を正しく反省できるからこそ、次の行動を変えられる。これは単なる「自己否定」ではなく、「成長への一歩」なのです。
■ 善を積む、その先にある自由
仏教が示す道は「善だけを積み続ける」という、非常にシンプルでありながら奥深いものです。しかし、その道のりの中で、「善にすら執着しない」境地へと至る可能性が開かれています。
慚愧の感情に正しく向き合い、善を積みながらも執着を捨てる。そんな生き方こそが、心の平穏と真の自由、そして解脱への道なのです。