「道はいつも ひらかれている」 古谷 綱武
道は、すべての人の前にひらかれている。その人に、やる気があるかないかだけである。道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、道がとざされていると思う人の前には道はとざされている。
自分はだめだと思う人はだめになっていく。道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、自分が生きていくべき人生は、自分で発見していくよりほかにはないのである。
道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、生きがいとしあわせとをつかみあてるその鍵は、自分の心の姿勢の中にだけしかない。
道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、個性のない人生は真実の人生ではない。たとえ優れた人のまねをしても、まねをすることでつかみあてられる「自分の人生」というものは、この世にはないのである。
道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、人生を暗く生きようとする人には、明るい人生も暗くしか生きられない。人生を明るく生きようとする人だけが、暗い人生さえも、明るく生きていくことができるのである。
道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、自分からあきらめてしまうことはもはや生きることではない。その人の前では道もとざされる。
道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、人が一度でやり遂げられることが自分には、一度でやり遂げられないこともある。一度でやり遂げられないことは、十度やってみよう。十度やってもやりとげられないことは、百度やってみよう。
道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、自分から道をとざしてしまうような、そういう自分の中のいっさいのものを、自分から捨て去っていくことが大切である。それを捨て去ってしまったとき、ほんとうの自分が生まれてくる。道が開けてくる。
道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、たえず、知ろう、学ぼう、考えよう、とする意欲をもたなければ、人はその自分の人生の道を、あるき進む力を失うであろう。知り、学び、考えていくことが、自分の人生の道を歩いていくことだからである。
道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、世間に自分というものをあやまりなくわかってもらおうなどという期待は、持たない方がよい。そうした期待に生きたいのであったら、世間の因襲に全面的に屈服して生きるよりほかにはないのである。それは自分のない人間になることである。わかってもらえようともらえまいと、そんなことは問題にしないで、あくまでも、自分の真実にこそ生きつらぬいていこうとする時、世間というものは、あんがい、思いがけなく、かえって自分を理解してくれるものなのである。
自分自身のキャパシティを決めるのは誰か。
ほかならぬ自分自身である。「自分はこの程度」と決め付けていたら、絶対にそれ以上にはならない。
自分自身が制限を設けてしまっているのだから。生徒達に 「こういうことをやろう!」と提案すると
「無理!」
という生徒が必ずいる。そういう時に決まって言う言葉が「無理と言っている生徒には絶対に無理です」である。
「道は閉ざされている」と思う人には、道は閉ざされているのだ。
これは人生の真理なのではないだろうか。